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ふざけてる人のふざけてないブログ

日本語ラップ.xyzというサイトの管理人の独り言。 Twitterが向いていないので、こっちに書くことにした。このブログはギャグとか全然かまさない予定なので面白くありません。

指針

指針が無いから、おかしなことをするんだ。反省した点を箇条書きにしてみよう。何なら、後で、ノートにでも書いておこう。


・ちゃんと調査対象を主軸にすること。

・ちゃんと調査対象について書くこと。

・主軸からずれる場合は、変なトピックを盛り込まないこと。

・記事をあげる前に読み返すこと。

・記事を無闇に更新しないこと。

・せっかちを直す。

・あまり感情的になって、主観に走らないこと。

・ふざけ過ぎないこと。主軸からずれたら、止めること。

・言い方を考える。乱暴な言い方しない。

・暴力的な表現は押さえる。

・何かを書く前に指針を読むこと。

あと、迷惑かけたであろう人にはちゃんと謝る。

失言について考える。

今日は失言について書こうか。
失言というのは、失礼な発言のことだと思うのだが、普通に、一度や二度は経験して痛い目に遭っている人は世の中にいっぱいいるだろう。痛い目に遭って、次、しないようにと、気を付ければ、失言は無くなるはずだ。
しかし、一定数、そうじゃない人達がいる。何回やっても、直らない。その度に、人に嫌な思いをさせているのは分かるのだけど。
何で、こんなことを書いているのかと言えば、私がそういうタイプだからだ。そして、一番恐れていたことを実際にやってしまったからだ。私は、人と接する上で何を一番に考えるかと言えば、失言だ。たちの悪いことに、相手を知れば知るほど、私は、酷いことを言う傾向がある。傾向があると言ったのは、自分でも計り知れず、困っているからだ。(そもそも、"~だ"という口調すら、偉そうに聞こえるなら、変えるが、無駄が無いので、そうしているだけなので、悪意が無いことを伝えておく。)
もう、時効だと思うから、一つ中学校の事例を話す。
私は、中学校の社会の先生と、仲良くなった。くそ真面目な先生だ。先生のアゴが長かったので、定規で計測したり、資料をばらまいたり、名札を奪ったりしていた。(ていうか、まず、ため口で話してた気がするし…。)どう考えても、怒られる案件である。よく、あの先生は耐えたなと思うし、仲良くしてくれてたなと未だに不思議でならない…。
これで、本人が故意にやっていたり、悪意があってやっているなら、まだ、救いようがある。
私には、その悪意が無い。上手く言えないが、冗談の延長線上に失礼な行動があるのだ。だから、失礼な事をしていると気づくまでに、時間がかかる。もしくは、言われなきゃ一生気づかない。さっきの、先生の例で、改善されたのが、一年から半年かかっている。注意されなかったから、余計に気づけなかった。
だったら、注意すれば、直るのかと言えば、そんなことは無かった。高校の部活動の顧問の先生に対しても度々やらかしている。
部活動の先生を蔑ろにしてたのではなく、むしろ尊敬してたぐらいなのだ。それでも、先生に「親しき仲にも礼儀ありという言葉を知っているか?」と説教を受けるくらいに、失礼な事をしている。部活動の先生は、ちゃんと注意するタイプの先生だった。注意される度に、失礼な事だと認識はするのだけど、キリがない。
どうしたら、いいのか分からない。
私は、関わった人を、怒らせるか、うんざりさせるか、その自信だけは凄くある。
でも、2つ対策がある。

1、人と深く関わらない事
2、冗談を言わない

不思議と対外評価は上がるから、無難にそうしていれば、問題ない。人付き合いが薄っぺらくなってる原因なのは、分かっているが、不快に思わせるより良いと思ってる。
そんな極端な事をしなくても、注意すれば、良いと言う人もいると思うのだけど、それが今まで出来てないから、そこに到達している。これに関しては、自分が一番良く分かっている。20年以上こうなのだ。もう、自分でも、本当に頭おかしいんじゃないかと思っている。
いつも、頭の片隅には失言しないようにと思って、文章も書いている。それでも、失礼な事を書いていた。(それを思っていなかったら、もっと酷いことを書いている可能性がある。)ずっと、やらかすと思っていたけど、本当にやらかした。
私と関わる人は、本当に、可哀想だと思う。何回、注意しても呆れる程、失礼をはたらくからだ。やったことに対して、悪意は無いけど、罪悪感はある。
それを許容して欲しいと思って、書いたのではなく、自分で危なっかしいの分かっているから、書いている。また、やらかしそうな気がするからだ。
無礼に関して、これは、本当に謝る。ごめんなさい。
でも、次、同じ事をしないと約束しかねる。また、やる可能性がある。気をつけても、自覚が無い。
凄くおかしなことを言っているんだけど、事実だから、笑えない。無責任なのではなく、困っているから書いてる。おかしかったら、注意して欲しい。

頭のなかでは、私に関わった人には、感謝の気持ちと私に関わらない方が疲れないで済むのだから放って置いた方が良いんじゃないかという気持ちが半分くらいずついつも存在している。
もし、私と同じような人がいるなら、それは、同情する。


読んでくれたら、ありがとう。

以上。

個性と多様性について

ところで、個性とは、作品を決める価値観の一つである。完成度とは異なるベクトルの要素だ。私は、映画館に行って映画を見るとき、一応、ヤフー映画の評価をチラ見する。大体、☆3.5くらいだったら、大丈夫だろうと思って見に行くが、面白い時と、微妙な時がある。それは、多くの人が☆3.5をつけた場合と、☆5と☆2くらいが半分半分くらいの場合(賛否両論の状態)の2種類があるからだ。その場合、賛否両論になってる方が面白かったりする。賛否両論の状態というのは、個性の問題だ。個人の感性の問題だ。人によって受け取り方が違うから、批評にも差が生じてくる。今日は、そんなことを、ここに書き記す。多分、この後、人によっては、くっそ面白くない話をする。ここに書いてあるのは、大体、私の経験則や学んだことに基づいて書いてる。私は何度も失敗してる。憧れてるのはセガールだけど、何故か、「ジョン・マクレーン」コースに片足突っ込んでいる気がしてならない。そんな奴の話、聞きたくないという方は、ブラウザバックで構わない。


さて、映画の話を引き合いに出したのだから、私の好きな映画の話をしようか。もし、誰かに「好きな映画は何ですか?」と聞かれたら私は「ハリーポッターです。」と言うことにしている。"言うことにしている"ということは、これは、表向きの答えだ。「じゃあ、本当は何なんですか?」と言われたならこう答える。「最終絶叫計画4」が好きだと。何故、本当の事を言わないのかと言えば、内容を知っている人なら、明白であるが、下ネタとブラックジョークの連発だからだ。完全に、人を選ぶ映画なので、人に気軽に薦められない。人によっては、その後の付き合いで、人格を疑われる可能性がある。まともな女性はドン引きする。絶対、デートなんかで見たら空気が凍りつくこと間違いなしだ。そんな映画を、死ぬほど笑って見ている私は、意識他界系だ。意識高い系とは住む次元が違うので、そっちが逝ってくれないと、分かり合えそうもない。意識他界系と意識高い系。この2つはどうしたって開きがある。スタバでMacBookを開いて、日経ビジネスオンラインを見ているのが意識高い系。その横で、スタバのWi-Fiをタダ乗りして、スマホ探偵ファイルを見ているのが意識他界系だ。(これは冗談だ。本当にはやってないぞ。)そして、点と点が線で結ばれることは無いだろう。そんな異なる人種が、「最終絶叫計画4」を見たら、相反する意見が出るはずだ。高い系は「最低」といい、他界系は「最高」と言うことだろう。この意見が統一されることは無いと思う。意識他界系の私は、皆が、「最終絶叫計画4」を好きだと言ってくれたら嬉しいという気持ちはある。ブラックジョークと下ネタを抜きにしたら、パロディとしての作品の繋ぎ方や、ふざけ方のスキルは高い。普通にユーモアセンスのある面白い映画だと思うからだ。でも、感性の違いによる評価の違いというのは、どうすることも出来ない。嫌いなものは嫌いなのだから、しょうがない。もしも、私が意識高い系と映画の話をしないといけないなら、「ハリーポッター」の話は振っても大丈夫じゃないかと思っている。多くの人が周知していて、評価されている作品だからだ。大人から子供まで見ることが出来るし、えげつない表現方法をしている訳でも無い。USJにアトラクションあるくらいだし…。ある程度の評価は確保されている作品群だと思う。このように、好き嫌いには個性が強く関係してくる。もし、何か作品を作る時、多くの人に好かれるには、相反する個性を持った人の中間を狙うことになる。それは、最も共感しやすい面白さといえる。それは、基本に基づいて、誰でも理解出来るものを選択するということである。そして、妥協点まで個性を削ることでもある。(こういうのを、ボリュームゾーンを狙う…って表現すると、少し意識高い系になれるw)その反対は、個性的になると言うことだ。理解力や共感を、ある一定の層に絞ることにはなるが、個性に注力することで、作品の面白さに深みがでる。前に、Amazonの話をどこかでしたが、Amazonは優秀なインターフェースである。ボリュームゾーンを中心に探している商品を狙い打ちして、私達にその情報を提供する。だからこそ、多くの人に普及している。でも、そのAmazonには弱点もある。ある程度の幅広さがあっても、専門的な知識の必要な商品の幅の広さは専門店に劣るという点だ。職人さんがもし、道具を買うなら、Amazonで道具を探すより、専門店で探した方が用が足りることの方が多いだろう。凡庸性の高い道具だけでは、施工は出来ないからだ。つまりは、Amazonでは、カバーしきれない需要があると言うことなのだ。ホームセンターで言うなら、コーナンに行くより、コーナンProの方が、職人さんの利用率が高いだろう。要は、顧客の特性によって利用店舗が変わるということなのだ。そう考えれば、映画だって変わらない。作品の個性も顧客の特性の違いも対して差は無いと思う。作品の個性によって見るファン層が違うだけなのだ。個性を批評するのは、需要の違いを批評するようなものだ。だから、そこを批評するということはナンセンスじゃないかと思う。そりゃ、店だって、値段が高いとか、サービスがどうのとか、指摘しようとすれば、いくらでも指摘出来るが、それは、完成度の問題だ。そこは、高めていく必要のある部分だから、指摘されても仕方がない。それこそ、お客様の声というのは、そういう部分の指摘の為にあるからだ。一つ難しい事例を挙げる。例えば、重い商品を購入したのに、外にある車まで運んでくれないというクレームがあった場合、それは、対応しかねる部分もある。仮に、それが、お年寄りだとしても、一度それを許可したら、企業はサービスとして平等に提供しつづけなければならないからだ。それは、労働作業として従業員に追加される。お客様の声を、実現するほど、従業員の仕事が増える。でも、従業員の給与はなかなか上がらない。お客様満足度と従業員の満足度は比例していかない事が多い。それは、そういったクレームは利益に関するものでありながら、利益に直接的に結び付くものではないからだ。モラルや人間性の面で言えば、手伝ってあげる方が人道的なことは、従業員はみんな分かっている。でも、それをやりだしたら、きりがない。だから、従業員の時は誰も手伝わない。従業員が疲弊していくだけなのだ。個性について、批評するのがナンセンスだと思うのは、相手の立場を考えないで、自分の物差しで、作品のセンスの良し悪しを決めている部分があるからだ。それは、もう自己満でしかないのではないだろうか。別に、嫌いでも、良いのだけれど、そこを作品の良し悪しに結び付けてはいけないと思っている。私は「バイオハザード」シリーズが好きなのだけど、あれは、物語の繋ぎが滅茶苦茶だったり、辻褄が合わない部分がいっぱいある。それは、「バイオハザード」シリーズとして見たときの欠点かもしれない。しかし、「アリス応援上映」として見れば、関係無いのだ。アリスが無双してくれてさえいれば、私は、満足だ。たまに、批評とか見ていると、別にそこまで言わなくても良いのにと思うものがある。まあ、私がそこまで拘りが無いからかもしれない。「ディープ・ライジング・コンクエスト」で喜んでるので、雑食過ぎて何でも喜んで見れる可能性がある。(飽きたら、音声消して自分で吹き替えて遊べばいいし…)私が批評を書いても何の参考にもならない。ほぼ、「ウケる」しか書かない…
中学校くらいまでは、美術って有ったと思うんだが、あれって結構大変だった記憶はないだろうか。時間かかるし、絵が書くの嫌いな人は地獄の時間だと思う。仮に、好きな人でも、時間はかけてるし、労力は使ってる訳だから、大変な事だろう。だから、あまり、個性は否定しないで、認めて上げたらいいのになと思ってる。単に、自分のチャンネルと違う所に趣向があったというだけの話なのだから、そこを攻撃的に指摘してはいけない。こう言いつつも、自分もやってそうなので、人の事あまり言えないかもしれない。何が、言いたいかと言うと、あまり、個性を攻撃的に否定するようなことを言わない方が良いという話だ。CIA捜査官、すぐショットガンでどうにかしようとする悪い癖があるけどw人の子だから、みんなには仲良くして欲しいんだ。多様性が無ければ、つまらなくなる。何かを否定したら、世の中が単調になっちゃう気がするんだ。それって楽しくないと思う。

最後まで読んでくれた君たちには感謝だ。ありがとう。

追伸…私に予算をくれたら90%の人が☆1で、10%の人が☆5の評価をくれる映画を作る。そして、続編は10%の変態達と一緒に作りたい。そして、99%の人が…(略)目指したいのは、糞映画スパイラルだ!(製作過程をドキュメント映画にしたら、90%の人が高評価をくれると思うw絶対、面白いと思うんだよね。)

以上

あれだ。文章に感情込めるから、暴走してる気がする。真剣に適当に書くか、真剣に真面目に書くかどっちかにすれば、面倒くさいことにならないはずだ。あまり、主観に走らなきゃ、変なこと書かないと思うんだ。客観って大事だ。こっちは、出来る限り、雑学とかそういうのにしたら、問題無いと思うので、そうします。

反省

CIA捜査官、前回の記事が荒ぶっていた。ブログを作りはじめてから、既に、2回目の反省である。本当に良くないと思ってる。
CIA捜査官は、画面の向こう側に人がいることを忘れていることがある。向こう側の人を無意識で傷つけていそうだ。傷ついた人がいたら、ごめんなさい。ブログに書けるぐらいだから、ある程度、割りきれてる所はある。割りきれてなきゃ、もっと落ち込んでるはずだから。ただ、文章にすると、悪い意味で相乗効果を起こして余計な事を書いてしまうのだろう。私はブレーキがきかない所がある。アクセルを踏み込んだら、なかなか止まれない。余韻で進む所まで進む。良くも悪くも。


対岸の火事」という、ことわざがあるが、向こう岸の人は、火事に遭っている人をどうすべきか、皆さんは考えたことはあるだろうか?
放っておいても、関係は無いことだ。勝手に起こった火事に構っていられる程、人間は暇じゃない。
それを、非情だとは責められない。でも、助けられるなら、どうすれば良いのかと言えば、声をかけるしか方法は無い。「頑張れ」とか「諦めるな」とか。向こう岸から、火事に突っ込んで助けるのは無理な話だ。それは、巻き沿い食らうだけだから。自助努力で、川を渡らせて岸にたどり着かせるのが一番、正しい方法だと思う。だから、「諦めるな」で間違っていない。ただ、時折、火事側にいる人にとてつもないアホがいて、「我々の見ている岸は幻影だ」とか「川に大量のワニが潜んでる」とか屁理屈を連発して自分のいる場所が燃え盛っているにも関わらず、火事を睨み付けてじり貧まで岸に向かおうとしない奴がいる。実際に過去に「そういうことがあった」から、また、そういう事が起きるんじゃないかと思っている。どう考えても、火事をどうにかするより、岸に逃げた方が良いのに。でも、放っておいたら、追い詰められて、勝手に川を渡ると思うので、大丈夫だと思う。「ありがとう」と思ってる。そういう奴は、大体、向こう岸の人を困らせるので、手に負えないところはあるけど、多分、凄い、ふてくされてもちゃんと前に進むと思うので、問題無い。超、ひねくれてるだけだから。
何が言いたいのかまとまらなくなってきたが、応援する人は、凄いと思う。偉いよ。って言いたかっただけです。なので、読んでくれる人には感謝してます。

以上

教祖誕生っていうか、「信仰」について。

教祖誕生

教祖誕生

  • Creepy Nuts(R-指定&DJ松永)
  • ヒップホップ/ラップ
  • ¥250

「教祖誕生」を聞くと、「信仰」のことについて私は、話したくなってしまう。このブログは、CreepyNutsの事なんて毛ほども書くつもりがない。「信仰」について個人的な意見をだらだら書いているだけだ。でも、物凄く物好きな人で、私がCreepyNutsについて書いた記事が読みたい人が居たら、この記事(http://xn--9ckxbwcz403azlbtz6h.xyz/2017/03/24/chosa2/)から辿って欲しい。

さて、前置きはこの辺にして、本題に入ろう。私は、 一応、大学を卒業している。但し、夜間大学だ。とりあえず、書類さえ通れば受かると言っても過言ではない。正直に言おう。私は一度そこに受かったが、もう一年勉強したら流石に昼間部に受かるだろうと、浪人している。

英語が苦手な自覚があったので、英語だけ予備校に行って勉強した。しかし、全く覚えられなかった。もし、英語が得意な人がいるなら、教えて欲しい。私は、高校の時からずっと引っ掛かってる文法の疑問がある。「This is a pen.」の和訳は「これはペンです。」だ。「This=これ」「a pen=ペン」ここまでは良い。「is」は何なんだよ。「is」は、「は」なのか「です」なのか?辞書にはさ「~は~です」だって書いてあるんだよ。でも、おかしいだろ。アメリカ人の感覚になった場合、絶対「は」だと思うんだよ。だって、「Pen」の後ろにピリオド付いてるんだぞ。あの人達、絶対「これはペン。」って言ってる。そうすると、「です」が問題になってくる。「です」は何処に行ったんだ?私の中では、これを「です」のゴースト化現象と呼んでいる。そう考えると、文法は訳わかんなくなってくる。

こんな状態なので、また、昼間部を全落ちした。挙げ句もう一度夜間しか受からなかった。ある意味、快挙である。見た目こそ、勉強出来そうなのに、あんまり頭が良くない。あまり、見た目で良い思いをしないので、ANARCHYさん、よろしく髪の毛を青くしてしまえば良いのではと思ったことがあるが、絶対似合わないので止めている。

しかし、夜間というのは、私のようにどうしようもない奴ばかりが通っている大学なのではない。大学の称号を取りに来た社会人の人も居れば、経済的理由で通学している若い子、老後に学問を納めに来ている人、昼間部から夜間部に来た人、理由は様々だ。学部こそ合っても、あまり学部関係なしに法学、経済、商学から、学べたので結構取れる授業の幅は広い。そして、その幅広さ故か、教養の授業に一つ、とんでもないものが混じっていた。授業名を言うと大学が特定されそうなので、内容だけ紹介するなら、スピリチュアルについての授業が教養で選べた。しかも、普通の宗教の授業なのではない。ほぼ毎回、ゲスト講師がやってくる。占い師、新興宗教の教祖、元信者、スピリチュアルの仕事をしてる人、月と交流できるおばさん…etcもう、この時点で、「お前、嘘ついてるだろ」と言われそうだが、私が卒業するまでは本当にあった授業なのだ。(卒業後、何故か廃止に…)教祖誕生どころか、教祖降臨…リアルな教祖の話を聞けるレアな授業だった。私はもちろん即決で選択した。

そして、授業の中身もぶっ飛んでいた…
その授業はメイン講師がいて、彼が展開する持論の補足のため、ゲスト講師の授業があると言う形式で授業が成り立っていた。メイン講師の話は本当に謎だった。とりあえず、簡単に言うと、この世界に次元があって階層があってみたいな、パラレル世界や異次元世界があるみたいな、まずそれが存在する前提で話が進むので、常人の私には、理解不能だった。一歩間違えたら、その辺のメンヘラと変わらない論理展開である。そして、そんな世界を信じる人々と、そんな世界の住人達(?)が、ゲスト講師なのだ。その授業は、結構でかい講堂で行われていた。ゲスト講師は本当にユニークだ。ちょうど私の座っていたあたりの横のスペースを指さし「悪い気が溜まっているから、私はそこに近づけない。」とか言い出すくらいにはユニークだった。だったら、私はどうなるんだ?死ぬのか?と思いながら、聞いていた。吹き出さなくて良かった。他には、月とお話できるおばさんは見た目が普通だが、月のぶれた写真を、手振れじゃなくてどうやってもエラーになると熱く語り、月との交流の話をして来た。(そのカメラ、一回修理出さないか。)決まって、こういう人達の交流の話は、地球の危機に関連する話になる。環境とか、平和とか…月が言ってくるんだって。

一応、言っておくが、私は、別にその人達を侮辱したい訳じゃない。すげぇ、胡散臭いけど、その人達なりに信じる理由もちゃんとあって、無闇に信仰してる訳じゃ無いと言うことは分かった。でも、何で、その人達が、特別な立場で、そういう力を持っていて、私達に、その力がないのかという点で、既に差別じゃないかと思っていた。私には選民思考のように見えて、しょうがなかった。平和を訴える前に、人は、平等であるべきじゃなかろうか。私が、馬鹿だから理解出来なかったのだとしたら、馬鹿なままで良いとさえ思えた。別に、ゲスト講師全員がそうだった訳じゃ無い。ある占い師の人は、「千円払って、占いするぐらいなら、やり方覚えたらいいのよ」と言って、やり方を教えた上で「占いはただの統計学だ」と言いきっていた。(メイン講師が焦って度々妨害してた)そのくらいの気持ちの方が、私は、好きだ。本当に、訳の分からないことを言う人たちには、Red Pillを飲ませた方が良さそうだ。多分、飲んだ瞬間ぶっ倒れるだろう。まあ、いい。勝手に信じる分には自由だ。だが、本当に、熱心になってしまう人もいて、それはちょっとマズイんじゃないかと思っていた。前列に陣取り、よく質問にも行ってたし、確かに、優等生と言えるかもしれない。でも、なんだか、信者みたいだった。儲けるって漢字に見えてきた…そうかそうか。商学部だったので、別な意味でその仕組みに感心した。ちなみに、この授業の評価で、私は、A評価を貰っている。信じてない奴が、そんな評価取れる授業なんて、たかが知れているだろう。

さっきから言ってる通り、私は、この手の類いが好きじゃない。漠然と嫌い言ってるのではなく、結構、調べた上で言ってる。
私は、○藤○○(これで誰か分かったら天才だわ。)の本で、題名が凄い長いやつを知り合いから進められて読んだことがある。まあ、内容は「自分の幸福論」についてだ。一言で言えば、スピリチュアル系の自己啓発本だと、私は思った。薦められて読んだが、半分ぐらいで止めた。理由は、「人生なんて所詮ギャグ。」と抜かしていたからだ。「緊張した時は、そういう風に思えば良い」って事で言ってるんだとは思う。でも、真剣に生きてる人には失礼な気がしてならなかった。正直に言う。私だったら、薦めないどころか買うなって言うかもしれない。問題はこれだけじゃない。作者の幸福論は、確かに、結果として幸せになる方法を提示している。しかし、曖昧な表現すぎて、どうとも取れてしまうのだ。この本を凄く辛い精神状態の人が読んだら、何人かは救われたって言うかもしれない。でも、捉え方を間違えそうな表現の仕方が多々、散見している。幸福論はというのは、個人の主観的な体験談でしかないはずだ。何故、それを全体に当てはめようとする。読んだ人が、間違って人生踏み外したらどうするんだろう。幸福論って大体そういうことを平気で言ってたりするから、怖い。こういうのを、信じて何も考えずに実行するやつは確かに馬鹿だ。でも、発信した人間の罪はもっと重い。誰だって幸せになりたい気持ちはあるんだ。真似する人がいるということを考慮したんだろうか。
こういう本を読んでも、幸せになれない人がいるのは、何でか知っているか?理由は人生に攻略本が無いからだ。
一人一人違う人生を歩んでいるのに、同じ信条で救おうだなんて、そんな、おかしな話は無いだろう。人はロボットじゃない。心までは同じ部品で出来てない。
これは、信仰だって同じ事が言える。
人には様々な事情があるんだし、一人一人話も聞かないで、救うなどと、抜かすのは、嘘つきか身の程知らずだと思う。そんなことを言ってる奴がいるなら、一度疑った方が良い。あと、金銭だとか、利益が発生してるような信仰なんてものは信じなくていい。信仰は、モノじゃないから減価償却しないはずだ。普通に考えて、維持するための共益費は発生しないはずだろう。もう、その時点で、どこか破綻している。別なことに、お金を使った方がよっぽど幸せになれると思う。ネットでスピリチュアルって検索すると、大体、自分勝手なことが書いてあるのに、何で信じるんだろう。信じたら幸せになるとか、馬鹿になるだけだぞ。よく考えて欲しい。私は、スピリチュアルだろうが、何だろうが、考え方が正しければ、信仰はしないが、参考にはする。無闇に、「信じれば救われる」とか抜かすやつは、とりあえず、おかしいと思った方がいい。あれは、結果論での幸福論だ。漢さんだって「俺は媚びでも恨みでも笑顔で買い取る便利屋 汗水垂した金はどんだけ綺麗なのか教えてくれよ」って漢流の極論では言ってたけど、「やっぱり法律犯したり 人騙したりはせずに金儲け アホくさいけど 満更バカにはできない」ってmy money longでは言ってる。金稼げれば何でも良いって訳じゃないんだよ。だから、幸せになれれば、何でも良いって訳じゃないと思う。私の言うことは、おかしいんだろうか?

今こそ、ああいうのは「おかしい」って具体的に言えるが、本を薦められた時は、「変だ」と思いつつも具体的に指摘出来なかった。だから、曖昧に相づちしたことを後悔してる。もし、君達はそういうの薦められたら、ちゃんと考えてみたほうが良い。時間かかっても良いから、友達が変な本を読んでたら、おかしいって言ってあげなさい。私が言いたいのはそれだけだ。

何かの間違えで最後まで読んじゃった人達に感謝だ。読んでくれてありがとう。

以上。

Twitterで本音ばかり書いちゃう理由を考える。

CIAの方のブログ( http://xn--9ckxbwcz403azlbtz6h.xyz/ )を更新しようと思ってたのだが、昨日一日中、twitterが本音になりやすい理由を考えていたら、そちらの方が、頭のなかで、記事レベルの量になってしまったので、雑記と自戒として書くことにする。

本音feat般若/DOTAMA

本音 feat. 般若

本音 feat. 般若

  • DOTAMA
  • ヒップホップ/ラップ
  • ¥250

この曲はタイトル通り「本音」について歌っている曲だ。

私は、昨日、この曲を聞いてふと考えてしまった。
自分は、「twitterをやっても、そんなに本音なんて呟かないし、余裕、マジ余裕。前前前世から、建前しか言ってないし。」ぐらいの気持ちだったのに、いざやってみたら、「うわっ」って思うくらい、自分語りと本音を呟いていた…来来来世に影響が有りそうなので、その時のツイートを全部、消した(笑)

そして、その時、気付いてしまった。twitterで「用法用量守って」って、実はめちゃくちゃ難しいんじゃないかということに。

わざわざ、他人の曲の引用ではじめているが、この記事の内容は、ほぼ「twitterって本音を呟いちゃうのは何でだろう」ということの検証と考察、そして、自戒と懺悔といった所だ。曲の感想とかほぼ皆無なので、何かの間違えで読んでしまった人は、ここでブラウザバックしてほしい。もし、私がDOTAMA BESTを聞いた感想を知りたいという物好きな人がいたら、こちらのサイト( http://xn--9ckxbwcz403azlbtz6h.xyz/ )を見てほしい。

まず、私がtwitterをはじめた理由は、紛れもなく自分のサイトの宣伝のためだ。誤魔化して好感度を上げるつもりなんてさらさらまともに無いから、そこは、はっきり言っておく。私は、何事も「三日坊主」な所がある。続けて行くには、きっと何でもいいから呟かないと止めそう。という不安感から、頭の中にあったフラストレーションをtwitterにパッと解放してしまっていた。そこには、いけない欲望が渦巻いてたとしか言いようがない。

そして、振り返ってみたら、お台場まで冒険してたような内容で語尾にww生やしていた。ていうか、暴言を吐いていたし、証言よりかけるぜ黄色い小便だ。って感じだった。寝言だからって言って済ましたかった。というのが私の本音だ。
その後は「うわっ、私のツイート、モラル低すぎっ!!」と、何処かのネット広告ばりに、驚愕し、ツイート全削除をしたあと、妙に冷静になり、「ツイート本音化現象」を一人で分析することにした。(風呂場で4時間程)

一体、何故、twitterってぶっちゃけちゃう傾向があるんだろうか。

第一の原因として、文量が、挙げられる。140文字って、文章を書くには少な過ぎる。

そもそも、がっつり、文章を書くツールじゃないから当たり前の事なのだが、すぐ、規定の文字数まで到達してしまうことが、多々あり、不便だと思っていた。但し、これは書き方の性格も大きく関係しているだろう。

例えば、文章の書き方が①「結論はCだ。AがBであるが故に。」という書き方の人と、②「AがBである故にCだ。」という書き方の人では、前者(①)の方が、ツイートにした時、物言いが直球になりやすく感じる。理由は、140字に到達するまでに、結論に文字数を取ってしまい、"故に"の部分の文章を削ってしまいがちになるからだ。"故に"というのは、言い換えれば、"本音"の部分である。その文章を削る程、自分の発する言葉への感情がより、直線的なものとなり、あらわになりやすい。つまり、人の本質が目につきやすくなる。

ツイッターの文章に、言葉の角度を量る分度器を当てたら、普段120°くらいある人でも、60°くらいまで角度が狭まってしまうことは良くあるのだろう。話すテーマ、内容を極力絞り、見方の方向性を単一化し、出来るだけ、無駄の省いた文章を書く。そうなると、確実に何処からか、批判も浴びやすくなる。別な見方をして、同じ事象を呟いている人がいるからだ。そもそも、一つのテーマについて、論ずる時、140字では、不具合が生じやすい。何時まで経っても、意図が伝わりづらく、誰かと水掛け論になってしまうことが多いのではないだろうか。まあ、twitterが意思の交流の場であると考えれば、こういう水掛け論もアリと言えるが。

自分の全消ししたツイートを、振り返ってみると、文章形式が①の形だった。ツイートは出来る限り②の方式にした方がいいのかもしれない。何か述べる時は、結論をシンプルに持って行った方が良い。

良く考えて見たのだが、Twitterで何か"論ずる"行為をするのは、綱渡り的な危険がある。ツイートで、一方に偏らず、自分の意見を言うのは、難しい。私みたいにグダグダ書いちゃう系の人間には、ホントにとても難しい。フリースタイルが得意な人。特に、一発のパンチラインで凄い上手いこと言える人。そういう人は、Twitter向きかもしれない。短い文章でも、核心部をつけるから、失言による事故率も下がる。その逆、沢山の文章によって核心部を支えるタイプの人間は、Twitterは向いていない。所謂、ストレートよりジャブ派の人のことである。ジャブばっか撃っちゃうと、140字オーバーになる上に、言葉がはし切れにやりやすい。はし切れは、どうしても意図が伝わらないから、批判を受けやすくなる。

私はジャブ派の人間だ。対策するなら、Twitterでは論じるのを止めるしかないかもしれない。あらゆる事に意見しないアカウントにして、日常のどうでも良いことをポツポツ上げる程度にしないと、人を不快にさせそうだ。

ここまで述べたが、まだ「文量」の問題しか、私は、取り扱っていない。ジャブを撃ちすぎて、お腹いっぱいにさせてそうだが、次の第二の原因に移ろう。

第二の原因として、匿名性が挙げられる。Twitterは、フォロワーがいないと、誰も見ていないと油断しがちだ。ため息混じりの、日常の雑踏に、混じっては消えてくはずだった感情を、電子の海に吐き捨てることで、そこに爪痕を残している感覚が、欠如しがちだ。しかし、知らぬ間に電子の海で、私達は、爪を研いでしまっている。発言が鋭い武器のように尖っていないか注意しなければならないのだ。

私は、意見を論じない日常系アカウントにしてしまうことを決意したが、そこにも落とし穴がある。各個人の日常は、その人の主観性を持って語られる。だが、その主観性が、倫理的かつ社会性に沿うものかの判断は、客観によってもたらされるのだ。つまり、どう見えているか、常に、考えないと、日常すら、批判の対象となり得てしまう。(要約:Twitterって、頭痛いだけじゃん。)自分の日常が、大体、不謹慎な事を考えてる人間にとって、それは、面倒くさい以外の何者でもない。何処かの雪の女王は、「ありのままでー」と言っていたが、それだと、不都合が生じてしまう。それが、社会だ。
面倒くさくても、どうにかしないと、ありのままで色んな人を不愉快にしちゃう人種が世の中には存在してるんだよ。(私のように。)申しわけNAIKA MCとか、ごめんなサイモンジャップで済むならいいけど、一発しかハンドガンで撃ってないのに、世間は4発くらい弾道ミサイルで返してくるんだよ。(自業自得だけどね。)

さて、色々考えていると、もう、Twitterが何も呟けないツールに思えてくる。ハリーポッターで言う所の憂いの篩にも使えそうにない。ダンブルドアが普通に羨ましい。(そうじゃろ。ワシも普通にそう思うぞ。)

書いてるときに、急にクリスマスの曲を、思い出したので、引用しておく。
「だったら、何を歌えば良い?俺らは何を歌えばいい?」
「来年事故って死ぬかもしれない、そういう歌を僕は歌いたい。」

そうだ。もう、有りそうでなさそうな、壮大な野望でも語っておこう。(世界有数のセガール拳の使い手になるとか…世界を変える風になるとか…)誰も、批判のしようが無いから、呆れて帰る……

駄目じゃん。
宣伝の意味が無いじゃん。

もう、どうすりゃいいんだよ。

パトラッシュ、もう疲れたよ。ハイジでもペータでも晋平太さんでもいいから助けて欲しいよ。

晋平太「拙者が運転者。」

そうだ、もう、揺るぎない事実だけ述べていこう。拙者が運転者。拙者が宣伝者。拙者が…

MC漢「運転者とかねぇから、運転手だし。」

よし、アカウント消そ(笑)

小芝居挟んで、話が飛んでしまった感が否めない。申しわけNAIKA MC。ごめんなサイモンジャップ。

まあ、つまり、Twitterは、ドレスコードが無いように見えて実は、あったりするという話がしたかったんだ。トレンチコートマフィア状態で行くと、怪我をする可能性が高い。ラストパーティーは永遠にだ。眼鏡は掛けなくても良いから、フォーマルな格好しておいた方が良い。そのぐらいの気持ちで触っておけば、怪我をする確率は、かなり低くなる。

そして、どう考えても、Twitterより、長文ブログ向きな私は、一体何を呟けばいいのかという話だが…



MC松島ポーズで「こんにちは」しか呟く事が無いんじゃないかという結論に至った。

以上。

何かの間違いで、最後まで読んじゃった優しい人達に感謝を述べておく。ありがとう。